
ブログを書いていると、少なからず批判コメントをもらうことがあります。
私はよく知人にブログを書くことを勧めるのですが、過去にブログに批判コメントを書かれてそれ以降ブログは書けなくなってしまったという方が意外と多いです。
そこで、ブログを書いていて批判コメントをもらったらどうすればいいか、メンタル的に負けない方法について私なりの考えをまとめてみました。
【ポイント1】批判コメントが来ることを知る!
批判コメントは逆の立場の言い分!
どんなブログでも当然のことながら、全員が納得いくような記事にはなっていないと思います。
こうしたほうがいいという内容では、必ずその反対の立場の人たちがいるので、その人たちからすると、ブログの内容は到底納得いくものじゃないはずです。
私も現に、ごくたまにですが、見知らぬ方から痛烈な批判コメントをもらうことがありました。
この批判してくる人を徹底的に攻撃するという選択肢もありますが、それだと建設的ではないので、相手にしないで無視するという選択肢もあります。
しかし、それも難しいと思う人がいるかもしれませんので、メンタル的に負けないで対応できる方法を考えてみます。
批判コメントを書く人の特徴!
私は十人十色人それぞれの考えや価値観があっていいと思いますので、ブログの内容に反対意見を持っていただくのはまったく問題ないと思いますし、まったく不自然なことではないと思っています。
しかし、どんなに素晴らしい文章で批判のコメントをいただいたところで、私の考えがブレることはまずないと思いますし、まず、批判コメントを全部読まずに削除します。
批判コメントを下さる人というのは、感謝のコメントはくれたことがないのです。
どんなに共感しても(してないかもしれませんが)、どんなに感動しても(してないかもしれませんが)、それについては何のコメントもしてくれないのですが、気に入らない記事に出会うと、我慢できずガーって気持ちをぶちまけてくるのです。
普段いつもありがとうという気持ちの人がたまにクレームを言うのなら分かるのですが、ありがとうと思えることが当たり前だと思っていて何も言わないのに、気に入らないことがあるときだけクレームを言ってくる人って、人間的に魅力的だとは言えないですよね。
まあ、自分が納得できない記事があった場合、批判コメントを書き込みたい気持ちは分からなくもないのですが、そういう行動は最終的にはその人が損するからやめたほうがいいと思っています。
批判コメントを書く人は未熟
人間性のある波動の高い人達は、自分が感動したり共感したりするブログを読んだら、「良かったです」とか「ありがとうございます」とか、そういう愛のあるコメントやメッセージをたくさんくださります。
そして、仮に自分が納得いかなくてもわざわざ相手を否定するようなコメントなんてしないのです。
精神レベルが高い人は、何をやると人が喜んでくれて、何をやると人を敵に回すかということが分かっているのです。
ですから、いつも愛にあふれていて、素晴らしい仲間たちと幸せな人生を歩んでいけるのです。
批判コメントは削除していい
自分の価値観を持っているのはもちろんいいことです。
ですが、そのことを相手にぶつけても、相手が理解してくれることはまずないのです。
「人を動かす」というデール・カーネギーの本にあるように、人を批判することがいかに無意味であるか、私は若いころから痛感してきました。
人の考えを批判しても、その人の考えが改まることはあり得ないというのが現実です。
どんなに美しい理論で攻めても、人の心を変えることは不可能です。
また、批判コメントを書いた人を「この人天才かも」と思う人もまずいません。
むしろ、「批判コメントしか書けないような低レベルの人」と判断されてコメントが削除されるのがオチなのです。
もし、あなたがブログを書いていて批判コメントに悩んでしまったり、批判コメントを恐れてブログを書くのを躊躇してしまうようなことがあったら、批判コメントを書く人がどんな人なのかを考えてみてください。
精神レベルの高い人で誰かブログに対して批判コメントを書く人はまずいません。
もし、精神レベルの高い人が誰かブログに対して批判コメントを書いていたとしたら、その人は精神レベルが高くないということです。
精神レベルの高い人は人の間違いを指摘して自己陶酔する人はいないのです。
その人が喜ぶような言葉を投げかけ、応援するものですから。
精神レベルの高い人は自分の考えが正しいと思っていても、それは自分に対してのみ正しいと言うことが分かっています。
世界共通に正しい考え方など、この世に存在しないことを理解しているのです。
ですから、自分が正しいと信じている不確かな考えを人に押し付けるような事はしないのです。
それをやってしまうのは、自分が正しいと勘違いしてまっている未熟な人間なのです。
そんな未熟な人間の批判コメントに対して考え込む必要はありませんので、何も考えずに削除すればOKです。
私はすごい長文の批判コメントを何も考えずに削除してスッキリ解決します。
読まずに削除するので何が書いてあるかも分かりませんし、もう反論とかそういうこともできません。
批判コメントは0.01%の少数派
私が手ごわいと思う人は、私を喜ばせてくれる人です。
私を喜ばせてくれるような精神レベルが高い人は手ごわいですし、そう言う人に何かを言われたら考えを改めることはありますが、批判してくるような人は人間性の未熟さをアピールしているだけですので手ごわくもなんともないのです。
あなたもブログに批判コメントを書かれたら、サクッっと読んでサクッと削除していいと思います。
あなたがブログを通じてメッセージを伝えるべき相手は批判コメントを書く人ではなく、あなたの記事を楽しく読んでくださる読者さまなのですから。
そして、批判コメントを書いてくれる人は、読者の0.01%以下の少数派でしかないのです。
批判コメントをする人の立場
イチロー選手は天才的なプレイヤーでしたが、ぶっきらぼうな態度からしばしばマスコミに批判されたりしていました。
そんな時、イチローさんはどんな考えを持っていたかということがとても参考になります。
「人の批判をする人の言うことをいちいち聞いても上手く行くことはなかった。だから自分の考えを優先することにした。そもそも、人を批判する人というのは、正しく判断できる立場にない人ばかりだ。」
この最後の文章がとても重たいと思います。
「そもそも、人を批判する人というのは、正しく判断できる立場にない人ばかりだ。」
人を批判する人は、主観(自分を基準にした考え)でしか物事をとらえていないと言ことです。
この世には絶対的な基準はありませんから、所詮は相対的な価値感でしか物事を判断できないのです。
ブログに批判的なコメントを書く人は、その人の勝手な都合で書いているだけ、ということです。
その人が神様で全宇宙の絶対的な基準であるということはまずあり得ません。
ですから、その人はそう思っていればいいし、自分は自分の考え方を貫けばいいのだと思います。
【ポイント2】そもそも言葉遣いは難しいことを知る!
ちょっと言葉が足りないだけでも大炎上!
「復興以上に大切なのは高橋さん」と言う発言をして更迭されてしまったのは元五輪担当大臣です。
高橋さんと言う方は、自民党の高橋比奈子衆院議員のことでして、元五輪担当大臣は岩手県出身の高橋氏への支援を呼び掛ける中で「(東日本大震災からの)復興以上に大事なのは高橋さんなので、よろしくどうぞお願いします」と、復興を軽視する発言をしたということです。
これが復興を軽視した発言なのか?と言われると、そう解釈もできますが、そうでないと言えばそうではないと思います。
そもそも、この文脈をそのまま解釈するとしたら、「復興以上に大事なのは高橋さん」と言うことですが、高橋さんと言う一人の人命と復興では、どう考えても高橋さんと言う人の命のほうが大切です。
つまり、「復興以上に大事なのは高橋さん」と言う発言が復興を軽視すると言う解釈なら、高橋さんと言う人命は軽視してもいいと言うことになり兼ねません。
つまり、普通に、冷静に考えれば「復興以上に大事なのは高橋さん」と言うのは、復興を軽視する意図はないことくらいは分かると思うのです。
確かに言葉足らずのところはあるでしょうが、「復興以上に大事なのは高橋さん」と言う意味は「復興はもちろん大切だが、その復興に尽力される高橋さんも大切ですよ」と言いたかったのだと思います。
池江璃花子選手の白血病公表の際も失言?
この元五輪担当大臣は、競泳選手の白血病公表に際し、「がっかりしている」と発言して批判を浴びたこともあったと言います。
これも普通に考えれば、競泳選手が白血病になったことががっかりなのではなく、とても活躍していた池江選手が白血病になってしまったと言うニュースを聞いて、とてもショックだったと言いたかったのだと思います。
これも言葉のチョイスを間違ってしまったと思われるのですが、発言した人が元五輪担当大臣だったので、競泳選手が病気になってしまいメダルが獲得できないことががっかりだと解釈されてしまったのか、それで批判をされてしまったと言うことです。
五輪担当大臣と言えども、普通以上の語学力は求められるのは仕方ないにしても、完璧な日本語を使いこなすなんてできないと思うのです。
今の日本では、ちょっとした言葉の使い方のミスでさえも、上げ足をとるかの如くバッシングを浴びさせられる変な風潮があります。
もちろん、これは本当にごく少数の人達だと言うことは分かるのですが、なぜ、「本当はこう言うことを言いたかったのでは?」と言う弁護的な解釈ができないのか不思議です。
例えば、国語のテストでこんな問題が出たとします。
「五輪担当大臣が、有名スポーツ選手が病気になったことを公表した時、「がっかりしている」と言う発言をしました。この大臣が本当に言いたかったことは次のうちどれか?」
ア:メダルが獲得できないからがっかりだ
イ:病気になってしまってとてもショックだ
正解は「イ」だと思うのですが、なぜわざわざ「ア」と解釈して、それを正解にしたがるのかってことです。
言葉は難しいけどいい方の解釈を
言葉は本当に難しいと思いますが、解釈がどちらとも捉えられるのなら、いいほうに解釈したほうがいいのです。
わざわざ悪い方に解釈する人は、心が地獄のほうを向いています。
そう言う人は、死んだら地獄に落ちてしまいます。
この世には絶対的に正しい解釈など存在しません。
ですから、どう解釈するかは人それぞれの価値感の問題でしかないのです。
「復興以上に大事なのは高橋さん」と聞いて、復興を軽視していると解釈する人は、私の価値感では心が地獄のほうを向いているのではないかと思います。
もちろん、これは私の価値感であり、絶対的な正解というつもりはありません。
ただ、私だったらそうは解釈しないと言いたいだけです。
「復興以上に大事なのは高橋さん」と聞いたら、「なるほど、復興も大切だけど、復興を後押しする高橋議員は本当に大切なんだな」と私なら解釈すると思います。
「大臣はそんな失言は許されない」と言う人は、それは誰が決めたのか考えてほしいと思います。
「大臣はそんな失言は許されない」のはなぜでしょう?
それは誰が決めたのでしょう?
それを絶対的な基準で判断することなど、この宇宙では絶対に出来ないのです。
【ポイント3】異常なくらい過敏な人がいることを知る!
電車の運転手が居眠りで?
電車の運転手が居眠りしていると言う動画がニュースになっていました。
電車の運転手が居眠りをすることは、乗客の安全にかかわることですから、あってはならないことです。
それは当たり前の話なのですが、問題はそこではありません。
問題は、そうした人のミスを取りあげて話題にするこの情報化社会にあります。
電車の運転手が居眠りをしてはいけないことは当然として、その動画をアップして電車の運転手をみんなで攻撃するのはどういう心理なのか考えてみたいと思います。
それは、何かがあったから攻撃するのではなく、攻撃したい心が先にあって、その大義名分を見つけた瞬間に攻撃すると言う心理があるのです。
つまり、そうしたことを攻撃する人と言うのは、心が既に攻撃モードなのです。
いつでも攻撃できる準備が整っていて、何かのきっかけを常に待っている状態なのです。
ですから、そういった情報にいちいち反応してしまう人と言うのは、心に魔が潜んでいる可能性があるのです。
人を裁いてはいけない!
人間には誰だって間違いと言うのがあります。
許される間違い、許されない間違いもあるのですが、運転手の居眠りを絶対に許せないと言う人は、生まれてから死ぬまでただの一つも間違いを犯さない神様なのでしょうか?
そんなことあるわけないのです。
運転手の居眠り動画を見て批判している時点で、人間として間違っているとも言えるからです。
そもそも、裁判官でもない普通の人達は、人のことを裁いてはいけないのです。
なぜなら、人を裁けるほどの人格を備えているのか?と言う問題があるからです。
こうして人を批判する人は、必ずいつか人から激しい批判を受けることになります。
「そんなこと言っているお前だって人のこと批判しているじゃないか!」と言われそうですが、私は人のことを批判しているのではありません。
「人を批判する行為」について批判をしているのです。
「人を批判することは、良くないですよ」と言いたいのです。
あおり運転と居眠りの違い!
例えば、あおり運転の動画を見て批判する気持ちは分かります。
なぜなら、あおり運転をしている人は、意図的にやっていますので、その行為は悪質だからです。
ですが、電車の運転手が居眠りをしてしまったのは、どう考えても意図したものではないのです。
いわば、人の間違い、ミスというカテゴリです。
間違い、ミスは、人間ならば誰だってやってしまうことなのですから、あってはならないとしても、みんなでよってたかって攻撃するようなことではないと思うのです。
そういうポイントを見極める情報リテラシーが必要なのではないかと思います。
詐欺に引っかかる人は、うまい話に騙されることが多いのですが、世の中にうまい話はないのです。
あるのは、「まずい話」だけです。
もし、うまい話がやってきたら、自分のことを幸運だと思わずに、不運だと思わなければなりません。
なぜなら、うまい話を装った、まずい話だからです。
正しい情報、間違った情報は自分で判断しなければなりません。
ですから、世の中の論調に流されず、自分の軸を持つ必要があります。
SNSに流れている99%の情報はさらさらと流して、1%の有益な情報にだけ反応すればいいのです。
怒り、悲しみを感じる情報は、さらさらと流して行けばいいのです。
まとめ
ですが、そういう人はどこでもピリピリしてどこでも批判していますので、話を最後まで聞く必要はなく、削除して問題ありません。
なぜなら、イチローさんのコメントにもありましたとおり、
「そもそも、人を批判する人というのは、正しく判断できる立場にない人ばかりだ。」
とてもよく調べられていて、要領がよく、まとまりがあり、読みやすいです(^^)
特に引用されているところを線で強調してくれているので、頭に入りやすく、説得力があります。
とても魅力的な方なんだろうなと思いました。
人の痛みが分かり、感謝を忘れず、決しておごることのない対応力。
自信と卑屈を一緒にせず、自信の中に謙虚さを表し、人を惹き付けてしまう文章力。
最後、気付いた時には人を勇気づけてしまう。
あげたらキリがありません。
素晴らしい記事です。
本当にありがとうございます。
嬉しいコメントありがとうございます!
むむむ幕の内さんは
常日頃から周りの人達を幸せにしているのが
伝わってきます。
本当に言葉の選び方が素晴らしいと思います。
心がウキウキしてしまいました。
本当にありがとうございます!
はじめまして、自分への迷いがありweb検索中に貴殿の別の記事を見つけ、幾つかの記事を読ませて頂きました。惜しいです。批判する人を批判してしまっている。8割共感。2割残念という思いで読ませて頂いております。批判する人は自らを認めて欲しい承認欲求の強い人が多いと感じています。自分の人生何らかの苦しみに記事を重ね合わせたりして衝動的に行われる批判と、相手を困られて喜ぶ批判と様々。もし前者の批判なら、批判されても尚その魂の苦しみをも救いとる優しさを持ちたいものです。人が神でなく、誰にも支配されないのは貴殿も私も同じですね。これは批判でしょうか?(笑)とはいえ、人に生きる意味と力を与えるという素晴らしい題材に溢れているのは確か。もっと大切に伝えて頂けるときっと魂レベルの低い私にも響くのではと思います。通りすがりの散文、大変失礼致しました。貴殿とお書きしましたが女性だったらすみません。少しでも私の想いが届きますように。
コメントありがとございます。
罪人を救うのは菩薩の修行ですが
私もまだまだ修行が足らない身だと思います。
ブログを批判する人が罪人というわけではありませんが
批判されたことに対して批判的なことを書くのは
結局批判している人と同じと言えば同じですね。
私がこの記事を書いたのは
批判された人がどう対応したらいいのかを
参考にして欲しいと言う意図があります。
つまり批判をする人が正しい人ではないから
聞く耳を持つ必要ないですよといいたいのです。
それによって勇気が与えられたら
私としては目的は達成できたかなと思っています。
まだ、私の力が及ばずにうまくは伝わっていないのでしょうね。
貴重なコメントありがとうございました。